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荀子を読む(1)全体観と勧学篇/修身篇

荀子」についての自分なりの理解や、読んで思ったこと・考えたことなど。現在進行形で考えは変わる可能性があるが、今時点のことを書き留める。

文献

[1] 澤田多喜男・小野四平『荀子』(中公クラシックス 2001年)

[2] 金谷治荀子』(岩波文庫 1961年)

荀子とは

性悪説」で有名な異端の儒者。紀元前3世紀頃の生まれ。姓は荀、名は況。

趙の出で、50歳を過ぎてから斉で用いられるが失脚、その後、秦に赴くが儒家思想により不採用、最終的には楚に移り、時の宰相の春申君に取り立てられる。春申君暗殺後は免職するが、そのまま楚で余生を送り、80歳前後で死去。

法家の韓非子や、秦の始皇帝時の宰相であった李斯などが荀子の門人。著作「荀子」にも李斯とのやり取りが出てくる。20巻32篇から成る。

画像はWikipediaより拝借

全体観

人間には生まれつき利益を追求する傾向があるため、無秩序だと争いが絶えない。故に、安定した社会秩序のためには"礼儀"(集団の規律)が必要だと説いている。

ただ、誰であっても学問をすれば、"可能性としては"聖人になれることから、庶民であっても礼儀に適合した者は大臣に取り立て、逆に高貴なものの子孫でも、礼儀に適合しなければ庶民に落とすべしとも言っており、集団(階級)は固定されるべきものではないとしている。

これは、実力主義能力主義を唱えたものとも受け止められるが、根本的に争いを肯定していないことから、「人間には生まれつき利益を追求する傾向がある」ことを認めた上で、学問をすることの"飴"を社会制度として提唱したに過ぎないように思う。

また、"天"といった迷信的権威を否定し(天人分離)、法家のような極端な法治主義も採らず、儒教伝統の人治主義を採る。

そのため、荀子の目線では常に人間が主人公であり、根底には人間の可能性への信頼があるように思える。時は戦国乱世であったが、荀子も未来への希望を失わなかった一人だったのだろう。

この辺は表現こそ違うが、「性善説」を説いた孟子とも本質的な部分は同じではないかと思う。

(余談だが、同じく「性悪説」を信奉した韓非子も、親子間等の愛情の存在にしばし言及している。「性悪」というのは、決して「絶対的な性悪」を指してはいない。)

第一巻

※以降は自分なりに気になった箇所を中心に

第一 勧学篇

くん子曰しいわく、学は以てむべからず。青はこれを藍より取りてしか藍より青く、氷は水これをつくりて而も水よりつめたし。(中略)金はれいに就けば即ちするどく、君子は博く学びて日に己を参省さんせいすれば、即ちは明らかにしてこう過ちなきなり。

君子が言う。「学問は途中でやめてはならない」と。青色は藍草から取るが藍草よりも青く、氷は水からできるが水よりも冷たい。(中略)刃物が砥石で磨かれると鋭くなるように、君子もひろく学んで日ごとに何度も反省すれば、知識は確かになり行動にも過ちがなくなる。

冒頭の部分。いの一番で「学問を途中で止めないこと」を述べる。さらに、君子が生まれつき他人より優れているわけではない(「君子は生まれながらに異なるに非ず」)とし、君子は積重ねの結果だと説く。

せき山を成せば風雨おこり、積水ふちを成せば蛟竜こうりゅう生じ、積善徳を成せばすなわちち神明自得し聖心備わる。

土が積もって高い山になると風雨が興るようになり、水が溜まって深い淵になると竜が住むようになるように、善行を重ねて徳が身につくようになると、自ずから超人的な洞察力が得られ、理想的な心の状態に達する。

蹞歩きほを積まざれば以て千里に至るなく、小流を積まざれば以て江海を成すなし。麒驥ききも一躍して十歩なることあたわず、駑馬どばも十すれば即ちまたこれに及ぶ。功かざるに在り。

一歩ずつ歩まなければ千里には至らないし、小さな小川が集まらなければ大河になることもない。名馬でも一飛びで十歩進める訳ではなく、駄馬でも十分な日数があれば名馬に追いつく。このような成功は、途中でやめないからこそだ。

また、学問の意義(目的)は聖人になることだとし、学問に終わりはないとする。

学、いずくにか始まり悪にか終わる。曰わく、其のすうすなわ誦経しょうけいに始まり読礼どくれいに終わり、その義は即ち士たるに始まり聖人たるに終わる。真に積力久しければ即ち入らん。学は没するに至りて而る後に止む。故に学の数は終わりあるも、其の義のごときは即ち須臾しゅしゅつべからず。

学問は何から始まり何で終わるか。その手段としては、「経典(詩経書経)」の暗誦に始まり、「礼」を読んで締めくくりとすることである。その意義としては、まず教養を修めた知識人から始まり、理想的な人物とされる聖人になることである。本当にひたすらに努力を積み重ね続けたならば、聖人の境地に達することができる。学問は死ぬまで続けるべきである。学問の手段には終わりがあるが、その意義は寸時も放棄してはならない。

さらに、学問をするのは当然で、それを実践してこそ意味があると説く。

百発に一を失えば、善射ぜんしゃうに足らず。千里に蹞歩きほ至らざれば、善御ぜんぎょと謂うに足らず。倫類りんるいに通ぜず仁義にいつならざれば、善学と謂うに足らず。学なる者はもとより学びてこれを一にするなり。

百発放ったうちの一本の矢だけでも失敗すれば、よい弓射とは言えない。千里の行程を進んでも、その一歩手前で力尽きれば、よい運転とは言えない。(礼法の社会規範や仁義の道徳を学んだとしても、)人間関係の規範となる前例をわきまえず、仁義の道徳を実践することに専心しなければ、よい学びとは言えない。学のある者とは、仁義の道徳を学んだだけでなく、その実践に専心する者のことである。

そして、そのような者を「完成した人」と評している。

是の故に権利も傾くる能わず。群衆も移す能わず。天下もうごかす能わず。(中略)れ是れをこれ徳操と謂う。徳操にしてしかる後く定まり、能く定まりて然る後能く応ず。能く定まりて能く応ず。夫れ是れをこれ成人と謂う。

こうなる(そのような者になる)と、もはや権勢や利欲もその心を傾けることはできず、群衆の圧力もその心を移ろわすことはできず、世界の大勢もその心を揺り動かすことはできない。(中略)そして、これこそを「節操ある徳」という。「節操ある徳」があって初めて内心が安定し、内心が安定して初めて自己を取り巻く環境に正しく対応できる。内心が安定して、いろいろな変化に対応できる人こそを「完成された人」という。

第一篇は「学の勧め」であり、学問すること、実践すること、それを継続すること、そして徳操を身につけるべきことが述べられている。

これが、理も法も立たぬ混乱の世の中に対する、荀子の考える解決策(の提示)だったのだろうと思う。(当篇には他に、教師について学ぶべきことなどが述べられている。)

第二 修身篇

善を見ては修然しゅうぜんとして必ず以て自らかえりみ、不善を見ては愀然しゅうぜんとして必ず以て自らかえりみ、善の身にれば介然かいぜんとして必ず以て自ら好み、不善の身に在れば菑然しぜんとして必ず以て自らにくむ。

人の善行をみたときは必ずつつしんで我が身を省察し、不善な行いをみたときは必ず憂えおそれて我が身を反省し、自分に善行があれば、確固たる信念をもって必ず自分を立派だと考え、自分に不善な行いがあれば、災難がふりかかったように必ず自分を忌み嫌う。

対比が韻を踏んだ形で展開される見事な始まり。銘文を損なうことなく書下し文にした、かつての日本人もセンスがある。そして以下が続く。

故に我をとして当たる者は吾が師なり。我をとして当たる者は吾が友なり。我に諂諛てんゆする者は吾がぞくなり。

だから、私の行いに悪いところがあるとして忠告してくれる人は、私にとって師であり、私の行いに取柄があるとして認めてくれる人は、私にとって友人であり、私にへつらう人は、私をそこなう者である。

そのため、師を尊んで友に親しみ、善を好んで諫言を受け入れ、もって我が身をよく戒めよ、としている。

また、「へつらい」や「賊(そこなう者)」について、他との比較を挙げながら、明確に定義を与えている。

善を以て人をみちびくはこれを教と謂い、善を以て人に和するはこれを順と謂い、不善を以て人を先くはこれを陥と謂い、不善を以て人に和するはこれをと謂う。是を是として非を非とするはこれを知と謂い、是を非として非を是とするはこれを愚と謂う。良を傷つくるをざんと曰い、良を害するを賊と曰い、是を是なりと謂いて非を非なりと謂うを直と曰い、(後略)

善で他人を導くのを教と言い、善で他人に和するのを順と言い、不善で他人を導くのをおとしいれと言い、不善で他人に和するのをへつらいと言う。正を正とし不正を不正とするのが知で、正を不正とし不正を正とするのは愚である。良を傷つけるのが讒であり、良を害するのが賊であり、正には正といい不正には不正というのが直であり、(後略)

おとしいれ」とまではいかなくても、赤信号みんなで渡れば怖くないといった「へつらい」は、しばし見られる光景か。

ただ、修養を積んで志意が正しくなれば、外物に翻弄されることはない(陳腐な例だが、周りが渡っていたとしても、自分の信念で赤信号を待てる)としている。

志意の修まれば即ち富貴にも驕り、道義の重ければ即ち王公をも軽んず。内に省みて外物の軽ければなり。伝に、君子は物を役し小人は物に役せらる、と曰えるは此れを謂うなり。身は労するも心の安ければこれを為し、利は少なきも義の多ければこれを為す。

志意が修正であれば富貴にも屈せず、道義心が重厚であれば王公をも恐れない。即ち、内的な道徳性よりも外界の事物は軽視されるからである。古伝に「君子は(その主体性を保って)外物を使役するが、凡人は(主体性を失って)外物に翻弄される」というのは、このことを言うのである。骨は折れても心安らかであればそれを行い、利益は薄くとも同義に富むことならばそれを行う。

そして、止まる所(=目標:聖人)をきめて進むならば、凡人であっても必ず行き着ける。一方、いかに近い道のりでも進まなければ行き着けないとして、ここでも継続の重要性を述べられる。

は一日にして千里なるも、駑馬どばも十駕すれば即ち亦これに及ぶ。まさに以て無窮をきわめ無極をわんとするか。其れ骨を折り筋を絶つとも身を終うるまで相い及ぶべからず。将に止まる所有らんとすれば、即ち千里は遠しと雖も亦た或いは遅く或いは速く或いは先きんじ或いは後れんも、胡為なんすれぞ其れ相い及ぶべからざらんや。(中略)道はちかしと雖も行かざれば至らず、事は小なりと雖もさざれば成らず。

名馬は一日で千里も走るが、駄馬でも十日もかかればやはりそれに及ぶことができる。(とはいえ、)もし目的地がなければ、筋骨を絶ち切るまで努力しても生涯目的を達することはできない。(しかし、)もし目標としての到達点をきめて進むならば、千里の道は遠くとも、遅速先後の差はあるにせよ、どうして行き着けないことがあろうか。(中略)いかに近い道のりでも進まなければ行き着けず、いかに小事でも行わなければ完成しない。

修身篇でも、勧学篇と同じ主張が繰り返しなされる。以上が第一巻。

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各篇を書き始めたら長くなったので一旦ここまで。