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荀子を読む(2)不苟篇/栄辱篇

荀子」についての自分なりの理解や、読んで思ったこと・考えたことなど。前回の続き。今回は第二巻。第二巻は不苟篇(第三篇)と栄辱篇(第四篇)から成る。

第二巻

第三 不苟篇

君子とはどういうものかとの説明がしばらく続く。荀子としては、道義をわきまえていることが君子の条件だとする。

くんは、行にいやしくも難きことを貴ばず、説に苟くも察なることを貴ばず、名に苟くも伝わることを貴ばず、唯其の当たるを貴しと為すのみ。

君子は、行為について、行い難いことでさえあればよいとは考えず、弁説について、精密でさえあればよいとは考えず、名声について、広まりさえすればよいとは考えない。ただ、それらが規範に適合することをよいと考えるばかりである。

君子は(中略)、おそれしめ易きもおどし難し。患を畏るるも而も義に死すことを避けず、利を欲するも而も非なる所を為さず。

君子は(中略)、恐懼きょうくさせるのはやさしいが、脅迫することは難しい。害にあうのを畏れてはいるが、道義のために死ぬことを辞せず、利益を望みはするが悪いことはしない。

この君子像が特に荀子らしいと思う。害を恐れたり、利益を望んだりすることは、人間の本性であり、そのこと自体は君子たり得ない条件にはならないとする。

また、君子かどうかは能力の有無でも決まらないとし、次の文章で小人と比較しながら明確に述べている。

君子は能あるも不能なるも亦た好し。小人は能あるも亦た不能なるも亦た醜し。君子は能あれば則ち寛容易直かんよういちょくにして人を開きみちびき、不能なれば則ち恭敬繜絀きょうけいそんくつして人につつしつかう。小人は能あれば則ち倨傲僻違きょごうへきいにして人に驕溢たかぶり、不能なれば則ち嫉怨誹 しつえんびして人を傾覆けいふくす。故に曰わく、君子は能あれば則ち人もれに学ぶをよろこび、不能なれば則ち人もこれに告ぐるを楽しむ。小人は能あるも則ち人は焉れに学ぶを賤しみ、不能なるも則ち人はこれに告ぐるをずと。

君子は能力の有無にかかわらず立派である。小人は能力の有無にかかわらずよくない。君子は能力があれば、寛容平正で他人を啓発指導し、無能であれば、恭敬でへりくだって他人のために慎んで仕事をする。(一方、)小人は能力があれば、尊大邪悪で他人に驕り高ぶり、無能であれば、嫉み怨んで他人を陥れる。そのため、能力ある君子には他人もついて学ぶのを喜び、無能な君子には他人も教え知らせることを楽しむが、小人には能力があってもこれについて学ぶことを軽蔑し、無能であってもこれに教え知らせるのを恥じると言われるのである。

では何が君子の条件かといえば、道義をわきまえていることだと述べる。

君子は寛なるも而もおこたらず、廉なるも而もそこなわず、べんなるも而も争わず、察なるも而もきびしからず、直立するも而もしのがず、堅彊けんきょうなるも而も暴せず、柔従なるも而も流れず、恭敬謹慎なるも而もゆたかなり。夫れ是れを至文しぶんと謂う。

君子はゆったりしているが怠けることはない。廉直であるが人を傷つけることはない。雄弁であるが人と争うことはない。明察であるが厳しくはない。独立の気概があるが人をしのぐことはない。強くしっかりしているが乱暴はしない。従順でもの柔らかであるが世俗に流れることはしない。恭敬謹慎であるが窮屈ではない(おおらかである)。このようなのを至文(道義の最高の実現)という。

君子は人の徳を尊び人の美を揚ぐるも諂諛てんゆに非ざるなり。正義直指して人のあやまちを挙ぐるも毀疵きしに非ざるなり。己れの光美を言いて舜・禹にも擬し天地にもまじわるとするも誇誕こたんに非ざるなり。時と与に屈伸し、柔従なること蒲葦ほいごとくなるも懾怯しょうきょうに非ざるなり。剛彊猛毅ごうきょうもうきにして伸びざる所きも驕暴に非ざるなり。義を以て変応し、曲直に当たることを知るの故なり。

君子は他人の徳を尊重し美点を賞揚するが、へつらいのためではない。正論し率直に指摘して他人の過誤を明らかにするが、傷つけるためではない。自分の優れたことを述べて舜や禹にも並び天地に交わるものとするが、ほらふきのためではない。時の推移とともに我が身を伸縮し、ときにはがまあしのようにやわらかく従順であるが、怖じ恐れるためではない。(また、)ときには剛強で激しく何処までもやり遂げるが、驕慢粗暴きょうまんそぼうのためではない。これはらすべて道義を中心として変化対応して物事の是非曲直に適合することをわきまえているからのことである。

君子は大心ならば則ち天を敬いて道あり、小心ならば則ち義を畏れて節あり、知ならば則ち明通して類あり、愚ならば則ち端愨たんかくにして法あり、用いらるれば則ち恭にして止まり、おおわるれば則ちつつしみてただしく、喜べば則ちやわらぎておさまり、憂えば則ち静かにして理まり、通ずれば則ち文にして明、窮すれば則ちつづまやかにして詳し。(中略)伝に、君子はふたつながらに進み(中略)、と曰えるは此れを謂うなり。

君子は、もし心の大きい者であれば天(自然の規範性)を尊重して正道をふみ行い、心の小さい者であれば道義を畏れ慎んで節度があり、賢ければ明白に見通して細かい法度にもかない、愚かならば真面目に正直にして大法を守り、任用されたときは恭敬にして道義に止まり、人に妨げられたときは身を慎んで正しくし、喜ぶときは温和で治まり、悲しむときは静かに黙して治まり、栄達したときは十分に道義を表現して宣揚し、窮迫したときは万事控えめにして細事を守る。(中略)古伝に、「君子は、(もちまえの才能があるかどうかに関わらず、環境が順境・逆境かに関わらず)いずれの場合にも進歩する(中略)」とあるのは、このことを言うのである。

そして、道義をわきまえるには、仁を守り、義を行って、誠を極めることが最上だと説く。

君子、心を養うには、誠より善きはし。誠をきわむるには則ち壱事なし。唯仁のみを守と為し唯義のみを行と為すべし。誠心もて仁を守れば則ちあらわれ、形わるれば則ち神、神なれば則ち能く化す。誠心もて義を行えば則ち理あり、理あれば則ち明、明なれば則ち能く変ず。変と化と代々こもごも興るを、これ天徳と謂うなり。

君子の精神修養は誠によるのが最上である。誠を極めるのは他の事ではない、ただ仁を守り、義を行うのみである。誠実に仁を守れば、自ずからはっきりした形として外に現れ、微妙な動きをし、やがて一般の道徳的同化をもたらすことができる。誠実に義を行えば、道理が立ち、明白になり、やがて一般の道徳的変改をもたらすことができる。そしてこの変改と同化とが次々に行われるのを天徳というのである。

以降も君子たる者の条件の説明が続くが、一貫して、利益のあるところに行こうとするのは人間の自然の性だとしたうえで、ただ、利益の片面には害が有る場合もあるにもかかわらず、小人はその両面を熟慮しない(で利益のあるところに行ってしまう)が、君子は両面を比較勘案する(ので、利益があるからといって行くことはない)といった説明がなされる。一方で、そもそも人間の自然の性に(無理して)反そうとするのは、それにより虚名を盗もうとする行為であるから、これ以上よこしまなものはないとして、これは小人にも及ばないとする。

やはり荀子の描く君子像では、決して難しいこと(人間として行い難いこと)は要求していない。

第四 栄辱篇

あらそう者は其の身を忘るる者なり、其のしんを忘るる者なり、其の君を忘るる者なり。(中略)凡そ闘う者は必ず自らは以てと為して人を以て非と為すなり。己れは誠に是にして人は誠に是に非なれば則ち是れ己れは君子にして人は小人なり。君子を以て小人と相い賊害し、下は以て其の身を忘れ、内は以て其の親を忘れ、上は以て其の君を忘る、れ過ちのはなはだしきものならずや。

闘争する者は我が一身を忘れる者であり、我が肉親を忘れる者であり、我が主君を忘れる者である。(中略)およそ闘争する者は自分は必ず正しく相手が誤っていると考えているが、自分が本当に正しく相手が本当に誤っているのなら、それは自分が君子で相手は小人だということになる。君子でありながら小人と害しあい、下っては我が一身を忘れ、中程では我が肉親を忘れ、上では我が主君のことを忘れるというのは、何と甚だしい間違いではないか。

まさに以て智と為さんとするか、則ち愚なることれより大なるはし。将に以て利ありと為さんとするか、則ち害あること焉れより大なるは莫し。将に以て栄ありと為さんとするか、則ち辱あること焉れより大なるは莫し。将に以て安しと為さんとするか、則ち危うきこと焉れより大なるは莫し。人のあらそいあるは何ぞや。(中略)我れ甚だこれを にくむ。

これ(闘争)を賢智のことと考えるのであろうか、いやこれ以上に馬鹿げたことはない。これを利益のあることと考えるのであろうか、いやこれ以上に損害のあることはない。これを栄誉のことと考えるのであろうか、いやこれ以上に恥辱なことはない。これを安楽なことと考えるのであろうか、いやこれ以上に危険なことはない。人々に闘争が絶えないのはなぜであろうか。(中略)自分はそれを甚だしく憎んでいる。

荀子の、当時の世の中に対する課題認識が強く記されている。悲しいかな、今の世も似たようなものだ。闘争が絶えないことに対する荀子の分析が続く。

狗彘くていの勇なる者あり、賈盗かとうの勇なる者あり、士君子の勇なる者あり。飲食を争いて廉恥なく、是非を知らずして死傷をけず衆彊しゅうきょうを畏れず、恈恈然 ぼうぼうぜんとして唯飲食をのみ見るは、是れ狗彘の勇なり。事利の為めに財貨を争いて辞譲なく、果敢にしてうごき猛貧にしてもどり、恈恈然として唯利をのみ見るは、是れ賈盗の勇なり。死を軽んじて暴なるは、是れ小人の勇なり。義の在る所にして権に傾かず其の利を顧みず、国を挙げてこれに与うるとも改視を為さず、死を重んじ義を持してまがらざるは、是れ士君子の勇なり。

犬や豚の勇気というものがあり、商人や盗人の勇気というものがあり、小人の勇気というものがあ、士君子の勇気というものがある。飲食を争奪して恥を知らず、善悪をわきまえずに死傷をおかして強さを恐れず、物欲しげな様でただ飲食ばかりを求めるのは、犬豚の勇気である。利益のために財貨を争奪して譲ることがなく、果敢に動いては猛烈に貪って他人に逆らい、物欲しげな様でただ利益ばかりを求めるのは、商人盗人の勇気である。死をものともしないで乱暴するのは、小人の勇気である。ただ道義にかなうことを求めて権勢にもなびかず利益を求めず、たとえ国家の全体を与えられても目移りをせず、死を大事として尊重し道義的立場を保持して屈しないのは、士君子の勇気である。

新渡戸稲造の武士道での勇の定義は「義を見てせざるは勇なきなり」であり、この勇はチキンレースで競うような「匹夫の勇」とは全く異なるものだとの記述があるが、荀子の述べた士君子の勇気もまさに、「道義的立場を保持して屈しないこと」であった。

このような価値観は、後世(少なくとも新渡戸の頃の日本)にもきちんと受け継がれていたが、今の世の中ではどうだろうか。

世界的には必ずしも根付いていない価値観かもしれないが、少なくともそれが根付いていたであろう日本でも、今はこの考えは失われてきているように感じる。

そして、この篇の主題が続く。

栄辱の大分。義を先にして利を後にする者には栄あり、利を先にして義を後にする者には辱あり。栄者は常に通じ辱者は常に窮す。通者は常に人を制し窮者は常に人に制せらる。是れ栄と辱の大分なり。

栄誉と恥辱の概要について。道義を先に考えて利益を後のこととする者には栄誉があり、利益を先に考えて道義を後のこととする者には恥辱がある。栄誉ある者はもとより通達するが、恥辱を受ける者はいつも困窮する。通達するものはいつも人を支配するが、困窮する者はいつも人に支配される。これが栄誉と恥辱の概要である。

最後の支配・非支配の意図はよく分からないが、荀子は、身分に応じて報償を出すべきとの立場であり、かつ、身分制度は固定すべきではないとの立場なので、道義を先に考えて行動する者こそが為政者になるのに相応しい(あるいは、混乱の世でなければ、そのような者しか為政者になれないはずだ)、ということを言っているのかと思う。

そして、君子と小人には、知能や性質に差があるのではなく、あくまでも後天的な差があるのみであるとの主張が続く。

材性知能は君子も小人も同一なり。栄を好みて辱をにくみ利を好みて害を悪むは、是れ君子と小人との同じ所なり。其のこれを求むる所以の道のごときは則ち異なれり。小人なる者はつとめてたんを為しながら而も人の己れを信ぜんことを欲し、疾めて詐を為しながら而も人の己れに親しまんことを欲し、禽獣の行なるに而も人の己れを善とせんことを欲し、(中略)君子は信にして亦た人の己れを信ぜんことを欲し、忠にして亦た人の己れに親しまんことを欲し、修正しゅうせい治辨ちべんにして亦た人の己れを善とせんことを欲し、(中略)則ち君子は注錯ちゅうその当れるものにして小人は注錯の過ちたるものなり。

性質や知能は君子も小人も等しい。栄誉を好んで恥辱を憎み利益を好んで損害を憎むのは、君子と小人の等しい点である。けれどもそれらの求め方については相違がある。小人というものは、しばしば嘘をつきながら他人に信じられたいと思い、しばしば詐欺を行いながら他人に親しまれたいと思い、禽獣のような行為をしながら他人に善人だとみられたいと思い、(中略)君子は、自ら誠実にした上で他人に信ぜられようと思い、自ら忠実にした上で他人に親しまれようと思い、自ら修正で治まり整った上で他人に善人だとみられようと思い、(中略)つまり、君子は行為が適切な者であり、小人は行為が誤った者である。

凡そ人には一同なる所あり。(中略)堯・禹とも為るべく桀・せきとも為るべく(中略)注錯習俗の積む所に在るのみ。(中略)然るに人のつとめて此れを為して彼れを為すことすくなきは何ぞや。曰く、ろうなればなり。(中略)陋なる者は天下の公患なり。人の大殃大害たいおうたいがいなり。

一般に人間には誰にも共通するところがある。(中略)そのため、聖王の堯や禹にもなれれば暴君の桀や大盗賊の跖にもなれ、(中略)ただ後天的な仕業や習慣が積み重なっただけである。(中略)それなのに人々はこの後者への道をつとめて前者への道に励むことが稀なのは何故だろうか。不学で見識が狭いためというべきである。(中略)不学で見識が狭い者こそ天下の普遍的な患者である。人々にとっての最大の災害である。

そのため、先王(古代聖王)の道・仁義の統・詩書礼楽を学び、かつ一度のみならず、繰り返し学んで持続させるべき、つまり、学問をしてかつ継続せよと続く。そして、古代の聖王が制定した礼儀(社会規範)に従う社会が理想であることが述べられる。

以上が第二巻。第二巻では、一巻の内容をより発展させた形で説明されている。今回はここまで。

画像はWikipediaより拝借